H29年 (2017年)卒のOB短信

電気電子工学専攻を2019年に卒業後、ローム(株)に入社した池 広大と申します。2023年から電子クラブ幹事に任命いただきましたので、今後とも何卒よろしくお願いいたします。この度、OB短信を執筆する機会をいただいたので、自己紹介も兼ねて私の在学時代を振り返りたいと思います。

私は学部4年生までは平凡な学生生活を送っていましたが、当時の小池 一歩先生(現学科長)、矢野 満明先生(現名誉教授)の研究内容に大変興味を持ったことをきっかけに大学院進学を志していました。ところが、そのとき交際していた現妻と突然にも子供を授かることとなり、学生結婚を果たしてあっという間に1児の父親となってしまいました。当然、家族を養うために進学は諦めることになると思われましたが、私はどうしても進学を諦めきれませんでした。そこで、子を持ちながら学生でいさせて欲しいという我がままを妻と義両親に聞き入れてもらうため、出来るかもわからない誓いを立ててしまいました。その誓いとは、大学院で成果を挙げ奨学金の返還免除を受けることと、大企業に就職することです。これで、なんとか進学を許してもらえたのですが、今度は妻子ができたことを研究室の矢野先生、小池先生にお伝えする必要がありました。しかし、私はまだ学生で考えが浅かったので、先生方に怒られて進学を取り消されるのではないかという思い込みをしてしまい、大学院入学までの1年間は内緒にしてしまおうと心に決めました。隠し通すのはかなり難しく、特に実家から妻が産気づいたと連絡が来たときには、先生方にバレてしまうのでゼミを抜け出せず、危うく出産に立ち会えないところでした。結局、入学の直前に先生方に打ち明けた際には怒られるどころか大変ご祝福いただいたので、子供ができたくらいで進学を取り消すような鬼のような先生方だと思い込んでいたことを深く反省することとなりました。

進学後はD科の他の先生方にも私が妻子持ちの大学院生であることが広まっていきました。当時、副学長(現名誉教授)の小寺 正敏先生の大学院の授業で超音波エコーに関する調査報告をしたときには、妻のお腹にいる長女のエコー映像をプレゼンで使用し、小寺先生が目を丸くされていたことをよく覚えています。そこから色々な先生方に伝わって、他の先生方からも励ましのお言葉をかけていただくようになりました。今になって思い返せば、お子様がおられる先生方が多いので子育ての大変さや楽しみを理解いただきながら接してくださっていたということを痛感しています。また、私が先生方に相談事があると言うと「まさか2人目が産まれるのか!?」とイジられることも定番のネタになっていましたが、大学院2年の後半には本当に長男を授かり、2児の父親となりました。

このような大学生活でしたが、特に研究室の小池先生方と矢野先生には非常にお世話になり、私もなるべく妻子がいることを言い訳にせず研究に励むことができました。また、妻が社会人として自立していたので私は朝から夜遅くまで研究に没頭できました。そのお陰で、応用物理学会や日本材料学会といった著名な学会で賞を与る成果をあげることができ、奨学金の返還免除も受けることができました。このバックグラウンドが就活にも生かされ、第1志望のローム(株)にもすんなり入社できました。奇跡的に当初立てた2つの誓いは果たされたわけですが、家族や先生方の支えがなければ到底達成できなかったと思います。

さて、月日は早いもので、だらしなかった学生の私をここまで成長させてくれたきっかけとなった長女はもう小学1年生、長男は4歳になりました。私は入社5年目となり、かなり責任のある仕事も任せてもらえるようになりました。当然、成果を上げなければならないプレッシャーや上手くいかないストレスにも直面しますが、進学前に子供ができたあのどうしようもない局面に比べれば幾分かマシに思えてきます。昨今は晩婚化し、20歳近く年上の先輩社員のお子さんが私の子どもよりも年下ということも珍しくありません。それに比べれば、まだまだ手がかかるとはいえ、私が働き盛りの時期に子供がある程度成長していることは大きなメリットになっています。

この度、学生時代を振り返って思ったことは、何かの出来事をきっかけに人生計画が破綻したように見えても、実は人生は不思議なバランスを保っていて、耐え忍べば案外うまくいくこともあるということです。それを教訓にして、私は困難に直面したとしても、それは成長や新しい出会いに繋がるではないかとポジティブに捉えて立ち向かうことができています。このような経験をさせてくださった先生方と家族に改めて感謝したいと思います。

H27年 (2015年)卒のOB短信

電気電子工学専攻を2017年に卒業した宮下悠生と申します。

大学院を卒業してから早7年が経過しました。

私は、5年目に一度転職して現在はエーピーコミュニケーションズ株式会社(https://www.ap-com.co.jp/)という東京のシステムインテグレータの会社にいます。会社としては、ITインフラ自動化やパブリッククラウドに強く、社員がほとんどエンジニアで構成されているエンジニアファーストな会社です。東京の会社ですがテレワークメインの会社で今でも東京の自宅から完全テレワークで業務しています。チームには九州や北陸の地方の人もテレワークで参加しており働き方が変わってきたなと感じます。最近では、「手のひらネットワーク機器」というネットワーク機器をミニチュア化したカプセルトイを企画・監修してTwitterで話題になっていたりしています。

私の業務としては、ネットワーク自動化の部署に所属しており、プロジェクトリーダとして案件に携わっています。主にAnsibleという構成管理ツールと他のアプリケーションを組み合わせて顧客の運用・構築周りの課題を解決しています。ベンダー問わずネットワーク機器やサーバの設計・構築を行ったり、スクリプトを書くのがメインですが最近はWBSとにらめっこすることが多いです。

WBSはプロジェクト全体を細かな作業に分割し、複数人で役割分担した進捗や実績を管理できるようにするものです。例えば、アプリケーションを作るとなると設計、構築、試験の工程があり、その中でもさらに「画面を作る」、「○○の部分のプログラミングをする」のように具体的なレベルまで落とし込むことができます。このように、分割していくことでやるべきことを明確にして、正確な工数を積算することができます。例えば、アプリケーションを作るとなったときに大きくはサーバを作る工程とアプリケーションを作る工程があり、その中でもさらにタスクがあります。それらを円滑に進めるようにWBSを使ってスケジュールを組んでいます。

また、プロフェッショナル職というブログや外部登壇などのアウトプットも評価される仕組みがあり、私も最近書籍への寄稿や客先・OSS(オープンソースソフトウェア)コミュニティの勉強会に登壇しています。OSSはソースコードが自由に公開され、無償で利用できるソフトウェアのことです。私は、その中の業務でも利用しているAnsibleやNetBoxといったIT自動化に関係するソフトウェアに関わっています。私自身、プログラミングが好きで趣味で簡易Webアプリを開発したり、OSSをいじったりしているのでそういった活動が評価される今の会社にはとても満足しています。

その中で感じるのは、在学時に学会発表や論文作成を学んでいてよかったということです。もともと文章を書くことや人前で発表することは得意ではなく、発表資料を作っては毎回指摘をもらい、発表当日も空回りしてしまうことが多々あり、在学中はかなり苦労していました。社会人に入ってからも同様でしたが、数をこなしていくうちにプレゼンを行う上で次の2つが重要だと感じ意識するようにしました。

①聴講者を考えて資料構成を考えること

②質疑応答は負けない意思を持つこと

①については、聴講者が何を望んで聞いているのか?概要部分の説明だけでいいのか技術的な細かいところを説明するのか?を意識することが大事だと考えています。意識していないと、聴講者がプレゼン内容を理解できず、無駄な時間をとってしまうことになります。大学時代でも、学会発表で技術的な内容をしゃべりすぎて周りがぽかんとなってしまったことが思い出されます。また、資料構成の順序が整っていると原稿を覚えていなくてもなんとなくで伝わるのでとても重要だと感じます。

②については、私は質問をくれる人が真の聴講者だと思っており、その人が満足できればそれでプレゼンは成功だと考えています。学術発表と社会人でプレゼンの目的は違っていますが、心持ちは同じです。時にはマサカリ(厳しい質問)が飛んでくることもあります。論理武装はもちろん大事ですが、相手に押されない気持ちが大事なのだと考えています。

このようなことが重要だと感じることができたのは、研究室に入り毎年学会発表に参加させてもらい、留学・国際学会発表にも挑戦させていただいたおかげだと思います。まだまだ未熟ですが学生のときに経験した6年間は社会人になってもとても重要だと感じました。流行病も落ち着きはじめ、発表の機会が増えてきているので今後も経験を活かしていきます。

H10年卒のOB短信

H10年卒 吉田 誠

このたびOB短信を書かせていただくということで、これまでの自身の振り返りやこれからの目標を再び点検するタイミングをいただいたようで本当にありがたいです。駄文ではありますがどなたかのお役に立てましたら幸いです。

私は現在、社会人として働きつつ奈良先端科学技術大学院大学の先端科学技術研究科博士後期課程で学んでいる社会人20数年越えの学生です。

技術者としてのこれまでの取り組みや、なぜ今大学院に通っているのかなど含め報告させていただければと思います。

大学を卒業してからは、アナログ回路設計や高周波回路設計を主にやってきました。技術者として非常に恵まれたのは、当時あちこちのセミナーや講演会を聞きに行く機会をいただけたので第一線で活躍するその道の第一人者の方々とたくさん交流できたことです。

今でも年賀状のやり取りや食事など交流が続いています。その時感じたのは一流の技術者の方の多くは非常に腰が低くこちらが恐縮してしまうほど謙虚な方が多いということでした。また、好奇心もとても旺盛な方が多いように思います。

ある技術者の方とお話ししていますと「こんなことしてみたらどうだろうか」などアイデアがつぎつぎと出て「面白い面白い」とお話を伺いながら、その源は何かなとふと思いつつ伺ってみますと、専門分野に限らず、めずらしい技術や面白い発想のある技術など常に貪欲にアンテナを張っておられ、いったん抽象化して自身の分野との共通項や使える要素はないかなど考えておられるようです。

また、講演を聞いてとてもわかりやすく解説された別の技術者ですが、この方にゆっくりお話を伺ってみますと専門知識についても深く考察される時間を持たれているように感じました。講演のたとえ話などがとても分かりやすいのも色々な目線からの観察力のためなんだなと感じました。

恵まれた出会いの中、私もこんな技術者になりたいなと背中を見させていただき、アンテナを張るように心がけるのが日課になりました。先輩技術者からしたら、「まだまだ」かもしれませんが、引き続き精進しているところです。

このような前向きな方が近くにいていただいたおかげか、一念発起して電気電子部門の技術士の試験を受け2014年には資格を取得、回路の世界ではいくつか特許も取らせていただくことができ非常に充実した技術者生活でしたが、もう1歩達成したい目標がありました。それは小学校からの夢であった博士号を取ることです。

しかしいつ通うのか・・・いったん社会人を引退して大学院にとも考えましたが生活面の維持も必要ですのでいろいろと考えていたところ、会社の共同研究先の大学で社会人ドクターという道があることを知りました。

そここで人生で久しぶりの入学試験を受け2020年に合格し、入学するときにはガイダンスもあり学生時代に戻った気分を味わいました。早いものでそれから1年たち現在博士課程2年生ですが、妻や家族に協力してもらいながら研究に、論文作成にと主に土日を使って進めています。

研究内容はAIのためのセンサー回路などで、AIが識別しやすい特徴量をいかににセンサー側で持たせるかこれまで取れなかった事象をセンシングするにはどうしたらよいかなどです。回路とソフトウェアの間のような研究で回路設計とソフトウェアのコーディングと両方行っています。

ところで趣味では回路好きからこうじて半導体にも興味があるためこちらは独学ですがS・M.Szeの半導体デバイスの本や量子力学の勉強を改めて少しずつ進めていたのですがなんと入学した先端研究科は半導体をやっている学科も含まれているため、半導体の講義を聴講することもできるようでリフレッシュがてら、ものすごく得した気分で聴講もしています。ちょうどコロナ渦の影響もあり在宅で見ることもできる講義も多いため助かっています。

そんな学生生活は若い学生とも仲良くさせてもらい、幾分歳が若返ったような気になりましたが喜んでいるのもつかの間、大きな壁が待っていました。授業は博士後期課程ということでほとんどありませんが、英語が基本となっており大学時代も英語は苦手だったので非常に焦りました。今どきの英語アプリやYoutubeを活用して英語の特訓をし、なんとか「聞く」「話す」を少しずつできるようになってきたくらいのレベルです。

専門性のある英語は読み取り易き聴きやすいですので何とかなりますが、やはり語学はしっかり身に着けておかないとと実感しています。

いろいろと課題が多い学生生活ですが先日、情報処理学会の山下記念研究賞という賞をいただくことができました。本年3月受賞式もあるようで参加させていただこうと思っています。

卒業までにはまだまだ研究成果を積まないといけませんが、家族に感謝しつつ仕事と学業と家庭の両立に励み、いつか会った先輩技術者の様になれるよう貪欲に技術一直線で取り組んでいきたいと思います。

最後にこのような報告の機会をいただきありがとうございました。

山下記念研究賞

H40年卒のOB短信

近況・満80歳に思う
~筋トレとライフワーク継続で活力がみなぎる~
ストレージアナリスト 堀内義章(D40年卒)

 今年の8月25日で満80歳になる。自分自身実感はなく、ここまで生きれるとは思ってもいなく、幸い持病はあるものの、まだ週に1回テニスがやれる程度に動けていて元気で日常生活を続けている。大学を卒業して56年、会社をリタイアして20年。でも幸いにストレージの世界では、ストレージアナリストの名称で、学会への招待講演や、専門機関での年1回の「世界経済とストレージ、HDDの業界展望」を現在でも発表・継続している。ライフワークにしている専門の磁気記録を始めて56年目になる。

 振り返ってみると、入社1年目から積極的に活動を続け、その中で基本にしているのが
1)人の悪口を言わない 2)人と比較しない 3)何事にも前向き、くよくよしない
4)好奇心旺盛 5)知らない分野への挑戦 6)筋力をつけるストレッチ継続 7)読書を続ける 8)ボランティア活動 9)本音で話す 10)海外100カ国は訪問する
を基本にして、現在も積極的に進めている。今の生活ベースは
1)ライフワークである専門のストレージのマーケティング(新聞4紙<日経、朝日、電波、大阪日日>の購入と図書館へ専門2紙調査<日刊工業、日経産業>)
2)ボランティア活動(海外ボランティア・パプアニューギニア、災害復旧支援ダッシュ隊、民博ミュージアム・パートナーズ<国立民族学博物館>)
3)運動(毎朝晩の自宅での筋トレ、週1回のテニス、1日平均1万歩)
4)読書(基本は年間400冊、近くにサダ図書館)
5)海外100カ国の訪問(現在、85カ国)
6)過去の写真、年間活動ファイルの整理、手帳での年間活動記録のまとめ
7)絵画、茶道具、美術全書とうの整理と室内の不良品の破棄
8)過去に過去に書き溜めた随筆などの一括まとめ
9)遺産としての整理と、後継者への移管準備
10)一応、最低90歳、最大で100歳までのプラン
などを中心に、80歳から有終の美を飾れる店じまいの準備段階に入ろうと思っている。

 そこで、簡単に私の企業生活とリタイア後について整理してみます。

 1965年(昭和40年)に三洋電機(株)に入社、約3カ月の向上実習を終えて、中央研究所に配属された。配属先は磁性材料の研究室で、将来のVTR用材料の開発をテーマとして、先ずは、多結晶でNi-Ziフェライト、Mn-Znフェライトを開発。この時、研究室で焼成炉まで自作した。そして初めてMn-Znフェライト多結晶とセンダストを組み合わせた複合型のビデオヘッドを開発し、工業用VTRに搭載、1970年の吹田の大阪万博に出展し、無事動作した。この時、サンヨー館で人間洗濯機が出されたのは、今でも語り草になっている。7年間の研究所での開発を終え、事業部へ移管し、3年間の量産試作の後に、事業化に成功している。その後、単結晶フェライトの開発やVコード、オープンリール型VTR、ベータVTR、VHS・VTR、8ミリビデオ用の磁気ヘッドを開発・生産導入を果たした。その間にVHS用ドラムの開発、8ミリドラムの開発も行い生産に導入している。また、高周波に対応するために単結晶フェライトのギャップ付近に金属(センダスト)を付着させたMIG(メタル・イン・ギャップ)も開発し、ちょうど1990年代は、まだHDDが50MBの時代だったので、MIGでHDD用ヘッドに参入、その後、MR(Magnetic Resistance)やGMR(Giant Magnetic Resistance)に参入している。HDD関連のヘッドになるとどちらかといえば、マーケティングを中心に、対外折衝が多くなった。途中、VTRを製造している事業部から部品専用の部品事業部へ変わり、磁気ヘッド外販事業にゼロかたら着手し、多いときで市場の60%のシェアを取ったこともある。幸いに、会社にいる間は、一つの専門分野を続けられたことが、リタイア後も外部との人間関係の構築ができ、現状の続いている要因になっています。特に、IDEMA JAPAN(HDD協会)の理事を2年間(途中で三洋が、HDDヘッドからの撤退)行い、さらに現状では理事待遇で、協賛会員として理事会にも現状でも参加しています。また会社にいる間に、多くの対外人脈ができたことは、リタイア後にも大きく影響しています。

 リタイア後には、2年目に個人事務所HORI Technoloy Officeを開設して、専門のストレージマーケティングを中心に活動。講演や寄稿、毎月・ストレージの情報発信を続けている。 社外人脈は、多くの協会・団体へ参加して活動することで貢献しています。まずは、(一社)南太平洋協会(副理事長)は、オセアニア14カ国を支援する会で、特にパプアニューニアには12回、2週間電気も風呂もトイレもないジャングルで現地支援をしています。また、協会から出している旧暦カレンダーは、日本人の季節感を味合うのにぴったりのカレンダーでこの普及に努めています。災害復旧支援ダッシュ隊は、2011年の東日本大震災の時に発足した会で、今年10年目を迎えています。主に東北、茨城、琵琶湖、和歌山、岡山、福岡、熊本などに災害支援で出動しています。民博ミュージアムパートナーズ(MMP)は、吹田にある国立民族学博物館のボランティアで、2007年に予算取れる団体として発足に尽力し、現状も細々ながら継続しています。世界の民族学の地の終結です。他に、大阪工業大学校友会の相談役や電子クラブの相談役も行っています。一方で、日本旅のペンクラブ(理事)も活動を続け、旅ペン関西部としてお世話をしています。その中で、「大阪日日新聞に「旅ペン関西部便り」を毎週掲載しており、その記事も担当しており、関西メンバーに執筆依頼をしています。さらに、月刊奈良には、年1回投稿、今年は9月号に掲載される予定。また、楽酒の会(現世話人)も約50名の会員で、毎月1回、日本酒を4~5種類味わっています。今コロナ感染で中断していますが、すでに169回を開催しました。日本の伝統での茶道は、24歳から7年間稽古に通い、現在では初釜やお茶会に顔を出す程度ですが、毎月の自宅で月初めにお菓子と抹茶を頂いています。週1回のテニスと年に何回か昔のテニス仲間が集まり、人的交流を続け、仲間が丹波に黒豆の畑を持っているので、毎年10月後半に丹波へ行き、黒豆刈りをします。その他、専門ではIDEMA JAPANの協賛会員(理事待遇)で、年間計画や理事会に参加して、会を盛り立ています。海外は旅行や仕事も含めて85カ国を訪問し、今後100カ国を目指しています(今コロナ感染拡大で海外には出れないが)。読書は年間400冊目安で、ジャンルを問わず、乱読しています。幸いに近くに蹉跎図書館(駅に行くまでの途中)があり、新刊本が多いので、大いに活用しています。

 何せ、死ぬ時期が不明なので、いつ突然どうなるかは不明。80歳を超すと、色んな機能が落ちてくるので、覚悟をしながら、毎日を悔いなく過ごすのが一番。この歳になって、生き方云々ではなく、今後どう社会に貢献しながら生きていけるかが課題で、いつも社会にお返しする積りで行動している。ただ今、言えることは、専門で博士号をとるならば、若いときに研究成果をすぐまとめることが重要。筆者もビデオヘッドの開発をまとめようと思っていたが、すでにVTRが消えゆく技術、次のHDDも大容量は残るが一般的メモリはフラッシュメモリやSSD(ソリッド・ステート・シリコン)にとって代わろうとしているので、最先端の時にまとめるのがいい。技術の進歩は早いので。若い人は、体力をつけることと生涯のライフワークを持つことが重要。実際にリタイアしてからの人生が勝負になる。だた、忠告したいのは、最近はコロナ感染拡大のために、在宅勤務やリモート会議が増え、人同士の折衝が大幅に減少しています。しかし、人間はアナログ。人と人との対面接触は、話し方、動作、声の調子や表情で読み取れるもので、感情、つまりテレパシーは、多分人間でないと不可能だと思えるので、科学技術が進歩してもフェース・ツー・フェースは必要で、人間としての存在感を示せるものです。筆者は、幸いに茶道を若いときにみっちりやったので、その精神が、今生かされています。

 従って、80歳を機に、今後は
1) 今まで経験したノウハウを、社会へのお返しすること
2) 90~100歳へ向かっての店じまいの準備で、モノを整理して廃棄していくこと
3) 専門や過去に書いて随筆をまとめ、一冊の本にすること
4) 過去多く撮った写真整理と処分
5) 健康維持のためのテニス、朝晩の筋トレ・ストレッチ、ウオーキングの継続
6) 各会へのお世話(日本旅のペンクラブ、楽酒の会、L&L21親睦会、蝮会<テニス>、あこがれG、IDEMA JAPAN、各種お茶会、
7) アルトサックスのマスター
8) 世界100カ国訪問
9) 小説を書くこと
10)読書の継続(年間400冊)

などを目標に、更にチャレンジしていく積りである。

〇堀内義章への意見・問い合わせ先:yhoriuchi@datagate.jp 090-8532-7533

堀内義章
1941年8月25日生まれ、東京生まれの九州育ち(福岡・飯塚)。1965年大阪工業大学卒、日本大学大学院国際情報研究科修士修了、京都創政塾卒(政治家を育てる会)。三洋電機(株)中央研究所入社。2001年定年退職後、個人事務所「HORI Technology Office」設立。マーケティングを中心に各種レポート発表中。専門は磁気記録(VTRヘッド、ドラム、HDDヘッドマーケティング)。大阪工業大学校友会参与・電子クラブ相談役、(一社)南太平洋協会・副理事長、日本旅のペンクラブ・理事、IDEMA JAPAN・協賛会員、(一社)災害復旧支援ダッシュ隊・会員
(作成:2021年8月3日)

H29年(2017年)卒のOB短信

西岡 正治 (Masaharu Nishioka)
光洋機械工業株式会社 (http://www.koyo-machine.co.jp/)
工作機械・メカトロニクス事業本部 設計部 制御設計グループ

2015年 工学部 電子情報通信工学科 卒業
2017年 工学研究科 電気電子工学専攻博士前期課程 修了

私は、大阪府八尾市に本社を置く光洋機械工業株式会社で工作機械の制御設計を担当させていただいています。1961年に光洋精工株式会社(現(株)ジェイテクト)より分離独立し、工作機械メーカーとしては「センタレス研削盤」や「平面研削盤」などの製品で国内トップシェアを誇るリーディングカンパニーです。また、自動車部品の重要保安部品である「インターミディエイトシャフト」の製造においては世界トップクラスのシェアを占めています。
大阪工業大学へ進学したきっかけは、元々数学や物理・化学などの分野が好きであったこと、無線の製造に携わっていた叔父の影響もあり電気や通信などの勉強がしたいという2つの点から電子情報通信工学科を選びました。
大学では色々な講義がありましたが、その中でも神村先生の「レーザー工学」の講義で興味を持つようになり「レーザー研究室」に所属しました。卒業研究のテーマの中で、一般教養学科の先生方との共同研究を行うものがありました。化学合成法を用いることで新しいレーザー材料となる半導体試料を作製し、物性評価を行う研究内容にとても興味を惹かれ、このテーマを選択し卒業研究に取り組みました。白衣を着て様々な合成を行う実験や、作製した試料をレーザーで測定するラマン分光測定や電子顕微鏡での観察は、それまでのアナログ電子回路を用いた実験とは違った新鮮さを感じました。
大学院に進学してからも共同研究を続けることを決め、化学合成法を用いた希薄磁性半導体の作製・評価を行う研究に取り組みました。作製した試料の物性を分析するためにX線回折測定や、磁化測定などの測定方法を取り入れることで多角的な視点から評価を行う方法を学びました。また、(地独)大阪市立工業研究所(現(地独)大阪産業技術研究所)の先生方との共同研究を行う機会があり、試料作成や実験通じて外部の研究者の方と意見を交えることで多くの事を学びました。
 さらに、神村先生のご支援や共同研究先の先生の紹介を通じて短期留学といった貴重な経験をさせていただきました。留学先は中国・上海にある上海師範大学で中国の多様な文化に触れ、多くの友人を作ることができました。また上海は地下鉄網がとても発達しており日本に比べて安い料金でかなり遠くまで乗ることができることや、公安部による監視が厳しく荷物検査が徹底されていた点が印象に残っています。 光洋機械工業へ入社後は半年間の現場での実習があり機械の配線作業や生産ラインで組み立て作業に取り組み、その後設計部の制御設計グループへ配属されました。現在の業務内容は「平面研削盤」のハード・ソフト両方の設計を担当させていただいています。ハード設計では機械本体に取付けられる制御盤・操作盤のサイズや、お客様の仕様
に合った制御部品や周辺機器の選定を行い電気回路図の作成を行っています。弊社では機械の大部分を機械設計が、電気に関わる部分は制御設計が担当し、部品の選定と手配が別になることがあります。構造上の干渉を避けるために機器などの取付け寸法や、選定部品の確認を行うことはとても重要になります。ソフト設計では主にシーケンサーやNCプログラムを用いて機械がどのように動作するべきか、どのようにあるべきかと考えながら組み上げます。場合によっては1から組む必要があるため難しい時もありますが、自分で考えたプログラムが正常に動作した時の達成感は感慨深いものがあります。
 入社してもう3年目という感覚ですが、まだまだ社会人としてはこれからなので日々努力を重ねることでレベルアップできるように頑張ります。

S61年(1986年)卒のOB短信

第55次日本南極地域観測隊(JARE55) 越冬隊通信担当
久保田 弘 (KUBOTA Hiroshi)

 皆さま、はじめまして。

大阪工業大学工学部電子工学科を昭和61年に卒業した久保田弘と申します。
現在は、総務省近畿総合通信局で情報通信行政(ICT政策)の仕事をしています。

昭和基地・19広場にて
昭和基地・19広場にて

私は、平成25年11月から平成27年3月までの約1年4か月間、第55次日本南極地域観測隊(JARE55) 越冬隊通信担当として、南極・昭和基地に赴任しておりました。

このたび、OB短信執筆の御依頼をいただきましたので、その当時の体験を振り返ってみたいと存じます。

日本南極地域観測隊
日本南極地域観測隊

昭和基地は、日本からおよそ1万4千キロメートルも離れています。緯度経度で表すと南緯69度、東経40度付近に位置します。ちょうどサウジアラビアやエチオピアの真南に当たります。昭和基地時間は、日本時間よりも6時間遅れています。

 

昭和基地は南極大陸にあるのではなく、大陸から4キロメートルほど離れた「東オングル島」という東西約3キロメートル、南北約2キロメートルの小さな島にあります。

昭和基地は南半球にあるため、日本とは季節が逆です。いまは1月ですので、昭和基地の季節は真夏です。

昭和基地の平均気温は、8月が最も低くてマイナス20度ぐらいです。反対に最も高いのは1月ですが、それでもマイナス1度ぐらいです。12月頃から翌年2月頃にかけては最高気温が零度を超える日がありますので、降り積もった雪が少しずつ融けだします。

これまでに昭和基地で観測した最低気温は、マイナス45.3度です。ちなみに、昭和基地から約1,000キロメートル離れたところにあるドームふじ基地では、標高が3,810メートルもあるため、マイナス79.7度を観測したことがあります。湿度は一年を通じて低いのですが、厳冬期には特に乾燥しています。夕食後に洗濯した衣類を室内に干しておくと、翌朝にはすっかり乾いています。

人間の活動がほとんど行われない南極は、地球環境を正確に観測することができる地球上でも貴重な場所です。

南極を研究する科学者は、さまざまな自然現象を通して、地球環境の過去を知り、未来を予測しようとしています。

南極地域観測は、国際協力の下に日本国が実施する事業の一つです。

事業の遂行に当たっては、極地科学に関する研究や観測及び業務に関係する複数の機関が担当分野の責任を負い、文部科学省に置かれている南極地域観測統合推進本部が省庁横断的にそれらを統合推進する責任を負っています。

日本における南極地域観測は、昭和32年(1957年)に南極大陸リュツォ・ホルム湾にある東オングル島に昭和基地建設を決めて以来、60年以上にわたって実施されてきました。

また、世界的な観測網の拠点として、定常的な気象観測の継続実施やオゾンホールの発見、研究プロジェクトとしての月隕石・火星隕石を含む世界最多級の隕石の採取、氷床掘削で得た氷床コアの解析による過去数十万年にわたる気候変動の解明及び生態系や大気中の二酸化炭素量のモニタリングによる環境変動の研究など多くの観測研究の成果を上げています。

私が参加した第55次観測隊では、24名の越冬隊員が昭和基地の維持運営の任務に就いていました。

越冬隊員は、大きく観測系の隊員と設営系の隊員に分けることができます。観測系の隊員は、電離層や気象、地磁気、オーロラなどの各種観測を行っています。設営系の隊員は、通信のほか、機械、建築・土木、調理、医療、環境保全、庶務・情報発信などの業務を行っています。

隊員の選考は、出発する前年の11月頃から始まります。また、隊員は、主として関係機関や研究組織から推薦を受けた人のなかから書類審査、面接、健康判定などの選考によって選ばれます。隊員のなかでも、医療隊員や調理隊員などは、一般公募で選ばれています。

昭和基地無線局の通信卓
昭和基地無線局の通信卓

隊員に求められるものとしては、専門的な知識・経験を持った「その道のプロ」であることはもちろんですが、心身ともに健康で協調性があり、また、歴史ある国家事業に従事する観測隊員としての自覚と責任を持てることが重要です。

通信担当の主な仕事としては、無線通信の宰領、無線設備の保守、電報の取扱いなどがあります。

越冬隊には通信担当が一人しかいませんので、通信に関することは、全て私が責任を持って行わなければなりません。(ただし、LAN及びインテルサット衛星通信システムについては、専任の隊員が別にいます。)

特に無線設備が故障したときには、迅速な対応が求められますので、気が休まるときがありません。

また、限られた人数で基地を維持運営していかなければなりませんので、通信の仕事以外に除雪や建築・土木工事、車輌整備、各種観測の補助などの仕事も行います。さらに、風呂やトイレなどの共用部分の清掃、調理の補助、散髪なども交替で行っています。

昭和基地における通信には、(1)日本国内との通信、(2)野外観測チームとの通信、(3)基地及びその周辺における作業連絡用の通信、(4)南極観測船しらせや観測用ヘリコプターとの通信、(5)外国基地との通信などがあります。

インマルサット衛星通信システムの修理作業
インマルサット衛星通信システムの修理作業

通信する相手との距離や目的によって、HF(短波帯)無線、VHF(超短波帯)無線、UHF(極超短波帯)無線、インテルサット衛星通信システム、イリジウム衛星携帯電話などの無線設備を使い分けています。

第1次観測隊が昭和基地で越冬を開始して以来長い間、隊員が日本にいる家族と連絡をとる唯一の手段がモールス通信による電報でした。

これを大きく変えたのが、昭和56年(1981年)に第22次観測隊が持ち込んだインマルサット衛星通信システムでした。これによって、電話やファクシミリなどで、簡単に日本国内と連絡できるようになりました。

さらに、平成16年(2004年)に導入されたインテルサット衛星通信システムによって、インターネットの常時接続が可能になりました。現在の昭和基地では、インターネットは、仕事に、また家族との連絡に欠かすことのできない存在になっています。

私が昭和基地に到着した当初は、通信の内容を一言も聞き漏らすまいと非常に緊張して通信を行っておりましたが、越冬終盤近くになると、さすがに落ち着いて通信できる余裕が出てきました。人間の慣れとは恐ろしいものですね。

波帯送信機の定期点検作業
2kW短波帯送信機の定期点検作業

越冬中、無線設備の故障も相次ぎました。車載型・携帯型無線機をはじめインマルサット衛星通信設備、短波帯送信機、ロンビックアンテナなどの故障には相当悩まされました。しかし、苦労して修理できたときの感激はいまでも忘れることができません。

仕事以外では、野生のペンギンやアザラシとの遭遇、そしてオーロラ、白夜、極夜、ブリザードなど通常では滅多に体験できないことをたくさん体験することができました。

昭和基地での生活は、楽しいこともたくさんありましたが、その一方で辛いこと、しんどいこともたくさんありました。瞼(まぶた)を閉じれば一つ一つの出来事がまるで走馬灯のようによみがえってきます。

ユーモラスなアデリーペンギン
ユーモラスなアデリーペンギン

大きな怪我や病気をすることもなく無事に任務を遂行できましたのも、ひとえに国内で支えていただきました多くの皆さまのおかげです。お陰さまで、第54次観測隊から託された通信隊員の襷(たすき)をなんとか第56次観測隊につなぐことができました。この場をお借りしてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

ウェッデルアザラシ
ウェッデルアザラシ

私は、これまで校友会活動にはあまり参加しておりませんでしたが、日本南極地域観測隊に参加したことが御縁となり、平成30年10月に常翔学園校友会(旧大阪工業大学学園校友会)関東支部と広島国際大学校友会関東支部とで構成する「東芳会」の第57回総会において、「日本の南極地域観測と南極通信事情 ~日本南極地域観測隊に参加して~」というテーマでお話させていただきました。

これからは、少しずつでも校友会活動に参加させていただきたいと存じますので、よろしくお願いいたします。

満天の星空とオーロラ
満天の星空とオーロラ

皆さまには、もっともっとお伝えしたいことがあるのですが、OB短信では十分にお伝えすることができません。国立極地研究所のWebサイトに「南極観測のホームページ」があります。興味のある方は、是非御覧になってみてください。南極観測のことをより詳しく知っていただけることでしょう。

国立極地研究所 南極観測のホームページ
https://www.nipr.ac.jp/jare/

H23年(2011年)卒のOB短信

オプテックス株式会社 戦略本部 開発センター R&D課
辻 久美穂(Kumiho Tsuji)さん
 私は、2011年に大阪工業大学の大学院を修了し、オプテックス株式会社で働き始めました。オプテックス株式会社は、滋賀県大津市にあるセンサメーカーです。
 会社は琵琶湖のすぐそばに建っており窓からは琵琶湖を一望出来ます。初めて会社に訪問されたお客様からは「素晴らしい景色」「まるで日本じゃないみたい」「こんな環境で仕事をしたい」と喜んでいただけます。
ところで、「オプテックス株式会社」の名前を聞いたことがある人は非常に少ないと思いながらこの記事を書いています。私も就職活動をするまでオプテックスという会社のことは全く知りませんでしたが、実は私たちの生活の身近にある製品を作っている会社です。
オプテックスは、おそらく皆さんが一日一回以上利用している「自動ドアのセンサ」を作っているメーカーです。自動ドアセンサの国内シェアは約60%。つまり二台に一台はオプテックスの自動ドアセンサです。それ以外にも、防犯用人感センサを開発し、世界80カ国以上へ販売しているグローバルな会社です。
私は、入社直後海外向けの防犯センサの開発に携わりました。現在は、センサの需要が見込まれるIoT(Internet of Things)市場に対して、新たなビジネスモデル作りや新たな技術・製品の研究開発をしています。
 学生時代は、小池先生の新機能デバイス研究室に所属し、半導体に関する研究をしていました。
研究室に入ったきっかけは授業の時に見たこんな映像でした。
―電車の窓やデスクがタッチパネルになり、操作すると必要な情報が表示される―
この映像を見た当時の私は、映画や本の中の世界が実現になんだ!
と驚き、わくわくしたことを覚えています。そこから約三年間、矢野先生と小池先生の指導の元、研究を行い、多くの事を学び貴重な経験をさせていただきました。
 最近では、仕事終わりや土日に開催されている勉強会やコミュニティに不定期ですが参加しています。このような場では、働く環境が違う人達と関わることが出来るため、新たな気付きを得ることや、別の視点で物事を考えることが出来ます。また同世代の女性技術者や結婚出産後も働きつづけ管理職をされている女性達のコミュニティもあります。同じ会社内に女性技術者が少ないため、ロールモデルが身近にいないのですが、社外の女性技術者の方々と会話をすることで、将来、自分がどうありたいかを考える機会を得ることが出来ました。
今いる環境ではない別の環境に身を置くことで、様々な経験や出会い、発見があります。学生の皆さんも、好奇心を持って色々なことにチャレンジしてほしいと思います。

H24年(2012年)卒のOB短信

株式会社メガチップス 人材開発部 組織・採用グループ 採用担当
青木 隆裕 (Takahiro Aoki)

■会社情報
株式会社メガチップス http://www.megachips.co.jp/
(RecruitingSite http://www.megachips.co.jp/recruit/index.html)
市場情報:東証1部
※株式会社メガチップスは、独立系のファブレスメーカーで使える技術や設備に制限が一切無く、課題解決向けたアプローチを多用に持っているという特徴があります。
ベンチャー企業精神が強いので、大企業の鼻を明かしてやろう!という気骨のある方を募集しています。

■学歴
2012年 工学研究科 電気電子工学専攻 博士前期課程 終了
2010年 工学部 電子情報通信工学科 卒業

【大阪工業大学を選んだ理由】
小学校~高校頃に、自宅でパソコンを触れることが多かったので、電化製品はどういう仕組みで動いてるんだろう?何ができるんだろう?という興味もあり、ソフトとハードが両方とも学べる電子情報通信工学科を選びました。

【大学院へ進学】
大学院へは、今しか出来ないことをチャレンジしたい!という想いで進学しました。
講義を通して半導体について興味を持ち、小池先生の新機能デバイス研究室で単結晶酸化亜鉛に関する研究しました。
青色LED作製を目指し、PL測定やX線回折装置を使用して単結晶酸化亜鉛を分析しながら、研究に明け暮れる日々で、再現性保つにはどうすればいいか?どうすればより高品質な結晶になるか?などを小池先生と議論しなら研究を行っていました。
単結晶酸化亜鉛薄膜に対する8MeVプロトンビームの照射効果に関する研究テーマでは、東北大学、筑波大学と共同研究を行い、他大学と交流することで普段とは違う見方・考察をを養うことができ、研究を通して自身を成長させることができました。

【株式会社メガチップスに入社】
就職活動は、大学院1年生の終盤に開始しました。
大学院で研究していた半導体をもっと上位で使用する仕事に興味を持ち、その分野の仕事を中心に探していました。
株式会社メガチップスに決めた理由としましては、独立系のファブレスメーカーで当時は従業員300名程度で大企業に負けない高い技術力があるという点、ベンチャー企業精神で色々なことにチャレンジさせて貰える文化があるという点、社内の風通しが良いという点に惹かれで決めました。
2017年4月までは大学院で学んだ製造プロセスに関する知識を生かしながら、アナログ回路設計の経験を積んでいました。大企業ではレイアウト設計とアナログ回路設計で担当が分かれて設計していたりするのですが、メガチップスでは両方とも同じ担当者が設計を実施し、アナログ回路設計の意図を反映させたレイアウトを作れる回路設計ができるという特徴があります。その後、縁が合って人材開発部という人を採用/育てる部門で新たにチャレンジさせて頂いてます。
来年度も採用担当として、一緒に働く仲間を募集したいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
入社後はどこにいままでの経験が生かされるのだろう?と不安になるかもしれませんが、学生時代に培った知識、経験は、必ず職場でも生かされます。
就職活動は学生時代における人生を左右する最大の岐路になると思いますが、自分自身の決断に後悔がないようにしっかり悩みながら前に進み、頑張って下さい!

S45年(1970年)卒のOB短信

小泉 博 さん
[1970年の大阪万博の年に毎日放送に入社]

私は昭和45年(1970年)の卒業ですから47年経っています。この年は吹田で大阪万博が開かれ、世は万博景気と言われて就職も好調で、私は千里丘の毎日放送に技術職として入社しました。もう退職して6年ほどになりますが、放送局の技術職には大きく分けて2種類ありました。一つは放送や送信などを担当する純技術です。番組やコマーシャルなどを番組表にそって間違いなく正確に送出し送信所から各家庭に届けます。今はめっきり見なくなりましたが、当時は機器が不安定で放送が途切れたり番組が不体裁になる放送事故は度々あって「しばらくお待ちください」というテロップがよく出ていました。担当者はその都度心臓が止まる思いで復旧していたものです。

もう一つは番組を作る技術で制作技術といいます。カメラマンや音声ミキサー、照明や編集などスタジオや中継現場で番組を作ります。意外に思われるかも知れませんが、これらの担当者はすべて電気・電子出身の技術者なのです。カメラや音声機器や編集機などはすべて電気機器で、取扱いはデリケートで不安定なものでよく故障しましたし、修理もしなければなりませんので電気技術者でなければ使いこなせなかったのです。

 

[テレビカメラマン]

私の趣味はカメラでしたのでカメラマンを希望し若いころはテレビカメラマンをしていました。ところが番組はすべてのジャンルを担当します。ドラマ、バラェティー、スポーツ中継、報道、当時はクイズ番組や歌番組も盛んでした。歌番組ではカメラワークのため前奏や間奏が何小節あるかカウントしなければなりません。私は音楽やスポーツには疎かったためイントロという言葉もわかりませんでした。当時はカラオケというものもなかったのです。スポーツ番組では野球であれゴルフ、ラグビー、バレーボールなど何でもルールを知らなければなりません。あたりまえですが理解できないものは撮影できないのです。したがって制作技術では広く浅くなんでもある程度知っておく必要がありました。

 

[ドラマ制作は重労働]

毎日放送ではドラマも盛んに制作していました。ドラマの撮影は深夜に及んだり徹夜になるのもめずらしくなくて、作業はかなり厳しいものでした。スタジオにはドラマセットを建てて撮影しますが、セットの家はスタジオの床に打ち付けることができません。スタジオの床に置いてあるだけです。台所でヒロインがショックを受けて、洗っていた茶碗を落として割るというシーンはよくあります。ところが、本番では「ボコッ」という音がして何度落としても割れません。部屋の床が台に乗っているだけなので割れないのです。結局皿を2枚重ねて落としてやっと割れました。

役者さんもいろんな人がいますが、現場のスタッフに撮影のテクニックやコツを教えたがる人もいます。時代劇である大物俳優が店から出てきて、店先で待っている町駕籠に乗って去っていくシーンがありました。そこでテクニックを教えてくれるのですが、考えてみますと今本物の駕籠屋さんはいません。駕籠を担ぐのは役者さんです。町駕籠ですから前と後ろの二人でお客一人を乗せて担ぐのです。どうしてもヨタヨタと担いでいく様になります。そこで、店から出てきて駕籠に乗り「駕籠屋さんやっとくれ」と言って御簾(駕籠ののれん)を下し、駕籠屋さんが「ヘイ」と言って担ぐ間に反対側からスルリと降りてカメラに映らないほうに隠れました。空駕籠は「エイホ、エイホ」と客を乗せた体で去っていきました。このような役者さんを我々は「スタッフ役者」と呼んでいます。

 

[NG集 役者やスタッフは必死]

役者さんが言うには、「セリフを覚えなくてもよかったら」こんな楽な仕事はないといいます。

意外にも名前が覚えにくいそうです。覚えにくいというよりも忘れやすいのでしょうか。普通のセリフは前後の文脈があって想像できる部分もあるが、名前は思い出せなければそれっきりです。本番で逃げる犯人に向かって「コラ待て!溝上」と自分の役の名前を叫んでNGになることもよくあります。

あるドラマで主人公の大会社のワンマン社長がガンに侵され余命幾ばくもないことになりました。そこで、関係者一同を呼び集めて遺産相続を言い渡すシーンがありました。そこには妻と子ども達以外に、別れた女や妾やその子供達、おまけに強欲な親戚など大勢が詰めかけています。大詰めの大変重要な長いシーンで、ほとんどが社長の長セリフです。社長役の役者さんは心配で横に控えさせている顧問弁護士役の役者さんに「名前が出なかったら助けてね」と助っ人を頼んでいました。

さて、本番です。「長男の隆に株券を…」「次男の正には○○の土地を…」つぎに「長女のあー…」

すかさず弁護士が「春子さま!」、ああ「春子には現金○○円」となんとか全員の遺産相続言い渡して長いシーンが終わりかけたときに「あー… う… …」、と絶句。一同「??」、社長「俺の名前忘れた!」 弁護士「それは言えないよ」一同ずっこけて最初からやり直しになりました。

ところで、ドラマの撮影が終了したとき打ち上げ懇親会が開かれます。そのときVTRに収録されている失敗のNG場面を皆で見て、改めて大笑いをして楽しんでいました。当然その後NG収録分は破棄していました。それらずっとあとになって、他局ですが失敗場面のVTRを集めてNG集とした番組が現れ好評を得ていました。アイデアとはこんなところにあるのでしょうか。皆が捨てていたものを使って番組を作った人は、ほんとうに偉い人だと思っています。

以上放送局のほんの一部を紹介させていただきました。好きでしていた仕事でしたので、いろんな経験ができておもしろい世界でした。 もう飽きましたけど!

H7年 (1995年)卒のOB短信

梅田裕香さん

私は高校生の時、超電導に興味を持ち、リニアモーターカーに憧れて大阪工業大学電子工学科へ進学しました。元々理系でしたし、女性が少ない等の不安や不便さも全く気にしていませんでした。しかし女子トイレが各棟に1つしかない。購買部では男性のものしか売っていない。など予想外の面白さでした。移動するときはまずトイレの場所を気にして覚えておく、など今思い出したら笑ってしまいます。

電子工学実験ではレポートの担当になると、図書館で関わったこともないようなジャンルの本を探して読み漁ったり、またそれなりに理解できていけたり。学校生活では周りの人と話してなんとなく友達になっていけたり、いろんな物事に接することで大変勉強になりました。卒業研究では3次元CGの作成を行い、研究室では失敗と成功の繰り返しで、粘り強さと根性をみっちり叩き込まれました。

卒業後、入学時の思いとは全く異なる業種へ就職しました。Oracleのオープン系システムの開発で、技術的にも人間的にも鍛えられました。PL/SQL、Dveloper2000を使える技術者は少なく、リリース後の不具合対応のプロジェクトに参画することが多かったです。学生時代に鍛えられた根性で、一人で夜間バッチの監視、納期間近の徹夜、上へのスケジュール見直し提案なども行いました。なんといっても「大阪工業大学」という看板が大きな力になりました。所詮女性という見方が多いので、実績、知名度を上げてもなかなか耳を傾けてはもらえません。「え、大工大ですか?」という言葉を何度も聞きました。どうしても見た目だけでは技術力が分からないし、現場で泣く、投げ出す人を私も見てきましたから仕方ありません。

現在は主婦です。3年ほど前に退職しました。会社からは家庭との両立を望まれましたが、仕事をセーブして続けるということに納得がいかず、退職することにしました。自分の中で完全にやりきった気持ちなので悔いは全くありません。今までとは違う生活を送るうちに、仕事は完全に過去のものになりました。

年齢を重ねても未経験なことは数多くあります。いい機会だから主婦でしかできないことをしています。自治会の役員をしたり、PTAの学級委員長をしてみたり。パワーポイントでスライドを作るのも、仕事でパソコンを使っていたので何となく作れますが、「何でできるの?」が普通の感覚のようです。周りの人との会話で、少し自分が違う世界にいたんだなと感じることが多いです。仕事は在宅で中学生の模擬テストの採点をしています。端末上で行うのでペーパーレスです。これもまた楽しいです。

今の一番の楽しみはパピーウォーカーです。盲導犬の子供を預かって育てています。以前は興味もなかったことに今は興味をもっている。不思議な自分がいます。今までの経験が無駄になることは一つもありません。私は大阪工業大学で勉強して本当によかったです。こうして大学とまたつながることができて大変うれしく思っています。